嘉納治五郎はIOC総会で批判にさらされながらも東京開催の確認に成功しますが、この帰路に急性肺炎で急死。

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嘉納先生は東京高師校長の時に、日本国民みんなができる体育(国民体育)を作らなくてはならないとして、「長距離走と水泳」を掲げました。

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真田:二人だったから良かったのかもしれないですね。 1912年ストックホルム大会、1916年ベルリン大会(第一次世界大戦で中止)、1920年アントワープ大会、1924年パリ大会の選手に選出されました。

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真田:追いついていないですね。 ところが、金栗が途中いなくなったことは主催者に伝わっておらず、行方不明扱いとなり、「消えたオリンピック走者」として語られることに。

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外国人選手との対戦経験がなかったため、彼らがスタートからいきなり全力でハイペースで飛ばすのに巻き込まれてオーバーペースとなり、自分のレースが出来ませんでした。 54年8か月6日5時間32分20秒3という記録はオリンピック史上最も遅いマラソン記録であり、今後もこの記録が破られる事は無いだろうと言われている。

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東京オリンピックが幻となり、恩師・嘉納治五郎を失った悲しみは大きく、また戦争の影が社会からスポーツを奪い取ってしまい、金栗四三は失意のまま熊本に帰りました。 教職員も学生も皆が参加する大運動会もやるのですが、卒業生が近隣の中学校から教え子を連れてくるので、参加者がどんどん拡大しました。

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清水:柔道に段位制を取り入れ、テキストをかなり書いて、技や指導法を広めていったのが嘉納先生のすごいところだったとよく言われていますよね。 - 2019年(演:、幼少期:/) 外部リンク [ ]• 真田:嘉納校長の教えをそのまま引き継いでいたのでしょう。

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大森:逆の言い方をすれば、それがなければ今の日本のスポーツはかなり遅れていたかもしれないですね。 (注:(外部リンク))筑波大学は第1回優勝校ですよね。 「庭球部」から始まり、そのあと「軟式庭球」、そのあと「ソフトテニス」と名前が変わっていくのですが、全部あわせて130周年になります。

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清水:ヨーロッパでは地域のクラブに所属してスポーツをしていますからね。 四三は5歳頃までは異常体質と言われるくらいひ弱な子どもで、特に2歳の頃までは夜泣きをしては家中の者を困らせていたが、10歳となる年の1901年(明治34年)、玉名北高等小学校(跡地には現在が建てられている)への進学を機に、自宅から学校までの山坂を越える往復約12kmの通学路を、近所の生徒たちと毎日走って行き戻りする「かけあし登校」を始め、マラソンの基礎を築くこととなった。

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